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歴史の文献によると、1792年(寛政4年) 統治に19軒の問屋の記録があり、問屋集積としての基盤ができました。
1827年(文政10年) 横山馬喰町に62軒の問屋登録記録があり、問屋街として集積が発展しつつあった状況が伺えます。
1851年(嘉永4年) 問屋組合名簿に144名の名前があり、横山町馬喰町一帯が問屋集積として確立された時期といえます。
横山町は、江戸時代から問屋街でしたが、馬喰町は当時は旅宿の町であり、馬喰町に宿泊して横山町の問屋街でじっくり品物を選ぶという「街としての機能」を有しており、地方からの集客もうまく進みました。その後、交通網の発達により馬喰町にものびていきましたが、大正3年の東京駅の開業によって、馬喰町の「問屋街」化が決定づけられたといえます。
関東大震災後復興した横山・馬喰町問屋街は、小間物を中心にした東京一の問屋街へと躍進していきました。 |
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江戸時代初期、この地に西本願寺の別院がありましたが、明暦の大火の後に築地に移転したため、その跡地に町屋が開かれました。もとは御家人横山某の知行地で、それが町名の由来といわれます。
浅草御門に向かう本町通り両側の町屋で、街道筋にあたっていたことも手伝って、小間物、薬種、書物などの各種問屋が軒を並べる問屋街として発展し、やがて江戸の代表的な商店街となりました。
明治に入ってからも、大通りや新道通りには様々な種類の問屋が増え、東京の大問屋街を形成していきました。
現在も〈横山町問屋街〉と総称されています。
馬喰町との境をなす 〈新道通り〉 は、ここに店を開く商人には成功者が多かったことから、俗に“出世新道”ともいわれました。今もありとあらゆる多彩な商品を扱う問屋が軒を接して店を構え、現金問屋街独特の雰囲気を作り出しています。
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今は問屋街の馬喰町ですが、古くは馬市の立つ町でした。
靖国通りと江戸通りの交差点の北側に、〈初音の馬場〉と呼ばれた馬場もあって、関ヶ原の戦の際には、ここで馬ぞろえ (出陣前の馬の検閲と演習) が行われたといいます。
博労 (馬の善し悪しを鑑定し、売買・仲介をする人) の頭、高木源兵衛や富田半七などが住んでいたところから当初は博労町、のちに馬喰町となりました。
明暦の大火 (1657年) の後、浅草御門、今の浅草橋たもとに関東郡代の屋敷が置かれると、地方からの公事師 (訴訟代理人) のための旅籠屋が増えてきました。横山町に隣接していたことから、各地から訪れる仕入れ、売り込みの商人たちの出入りも盛んで、大小の旅籠が集中し、江戸一番の旅館街として活況を呈したといいます。
旅館のほか、江戸土産を求める人のために小間物、化粧品、煙草、袋物などの店も多くなり、やがて馬喰町問屋街として開けました。
現在は、江戸通りをはさんで商社ビルや銀行などが建ち並ぶ一大商業地を形成しています。 |
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<靖国通りと江戸通りの交差点> |
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新道通りは、横山町と馬喰町の境にある通りで、溝に板が張られて、その上を通行したので、「板新道」と呼ばれていました。その後、明治40年頃、馬喰町の田島屋玩具店から出火して、板が燃え移ったこともあり、溝板に代えて、石や鉄で溝を蓋うことにし、「石新道」や「鉄新道」と呼ばれるようになりました。
東京大震災後は、区画整理の中で道幅も広がり舗装道路ができて、呼称も今の「新道通り」となり、の問屋街としての発展に合わせて賑やかになりました。
昭和の大不況時には、掛け売り代金を期日に支払えない小売店の増加を受けて、「現金安売り問屋」を看板に掲げる問屋が多くなり、町の性格が大きく変化しました。
昭和41年には、新道通りの問屋街の発展に取り組む組織として、共同作業が必要であるという共同認識から、
(1) 新道通りの発展のための共同事業及び行事
(2) 新道通りの宣伝
(3) 町会、職域団体などの催しもの及び独自事業
(4) 住みよい地区にするための事業
(5) 各官庁との連絡
(6) その他
本会の目的達成の為に必要な事業を行うことを目的に「横山町馬喰町新道通り会」が発足し、現在にいたっております。 |
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